「スピリチュアルにハマった友人」に悩む、すべての人に言いたいこと 5

忠告「する」「しない」で揺らぐ

少し前に、ある知人が「自己啓発やスピリチュアルにハマってる友人が心配で、目を覚ますよう忠告してる」と話していた。

その言葉に違和感を覚えた。目を覚ますことが相手にとっての幸福だと、なぜ言い切れるのだろう? たとえ自分には理解できないものであっても、他者がそれを信じるのは自由ではないか。

私がそう考えるのは、Aちゃんの存在が大きい。彼女は病気やお金、家族の問題など、いくつもの苦難を乗り越えながら、今は子育てに奮闘している。大変そうではあるものの、幸せそうだ。例の自己啓発やスピリチュアルが、彼女が苦難を乗り越えるための支えになっていたのだとしたら、私は「目を覚ませ」だなんて到底言えない。

たられば話をしても仕方がないけど、もしも彼女が誰かから自己啓発やスピリチュアルを取り上げられていたら、どうなっていただろう? それでも、今と同じようにしなやかな強さを身に着けていたかもしれない。今よりもっと幸せになっていたかもしれないし、もっと不幸になっていたかもしれない。それは、私にも彼女にも、誰にもわからないのではないか。

仮に、自分が「目を覚ませ」と忠告したことにより、相手が自己啓発やスピリチュアルにのめり込むのをやめたとする(実際はのめり込んでいる人に忠告したところで聞き入れてもらえないと思うが)。それは、相手から拠り所を奪うことにならないだろうか。そう思うと、忠告するのは怖い。

一方で、世の中には自己啓発やスピリチュアルにハマったことで身を滅ぼした人もいると聞く。「心の赴くままに生きよう」というメッセージを真に受けて勢いで仕事を辞めたり、家庭が崩壊したり、起業したけどうまくいかなかったり……。そういう体験談を読むと、「やっぱり忠告することこそ優しさなのかもしれない」と、考えが揺らぎはじめる。

また、「自己啓発やスピなどに依存する人の中には、精神疾患などの要因から正常な判断力を持たない人もいる」という意見をネットで読んだ。

たしかにAちゃんは精神疾患を持つし、育った家庭にもさまざまな問題がある。疾患や家庭環境などの生きづらさが原因で自己啓発やスピを拠り所にしている人に、「個人の自由」「本人がよければそれでいい」と言うのは、相手を尊重しているようで突き放すことにならないだろうか。それは、自己責任論でたびたび語られる「排除」や「分断」に通じるのでは……?

そんなふうに考えはじめると、忠告することとしないこと、どちらがAちゃんにとって最善かわからなくなった。

考えても考えても答えは出ない。結局、そのことには触れずに友人関係を続けてきた。

 

講談社 ライター 吉玉サキ より転載

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